体験談#2:ディエタ体験記 植物療法とシャーマニズムの基礎訓練 (3/4)

全4回に亘ってお届けする梶 智就さんによるディエタ・植物療法体験記。第3回にあたる本ブログでは、植物と深い関係性を築く過程と試練について纏められています。特に、以下で触れられている「夢」は、シピボ族のシャーマニズムにおいて最も重視される要素のひとつです。ディエタを初めて体験する梶さんは、夢を通じてどのようなメッセージを受け取ったのでしょうか?

体験記 第2話:ディエタ体験記 植物療法とシャーマニズムの基礎訓練(2/4)

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🌱体験者のプロフィール🌱

梶 智就:(アルバータ大学生物科学研究科・博士研究員)

研究の過程で偶然シピボ族のシャーマニズムに出会い、以来関心を持って調べ続けている。

個人ウェブサイト:https://sites.google.com/site/tomonarikaji/

 

 


アシミレーション


ディエタは植物との関係性を築く実践であるが、それは同時に植物とアシミレート(同化)してしまうことでもあると、青年マルコスは語る。

 

アシミレーションは主に植物のもつ特性や植物の化身である精霊、つまり目に見えないものと人間との間におこるとされるが、その徴候は目に見える部分に見出される。

 

例えばカタワという植物の幹は大きな刺に覆われており、一見して近寄りがたい印象を与える。ではこの植物を摂取すれば、防御の力がつくのではないか、そのような思考である。(写真下1枚目:カタワの全体像。非常に強力な毒・浄化作用がある。写真下2枚目:カタワの幹。棘に覆われている)

カタワにとっての防御力を、その植物体を摂取することで人間にとっての防御力として転換し取り込む・・・一見すると全くナンセンスな論理であるが、それを可能とするのがディエタの作法なのである。

 

なぜなら前述したようにディエタとは植物を受動的に摂取し効能を待つ行為ではなく、伝統に即して生活全体を律することにより植物との関係性を主体的に築き上げ同化してしまう実践であり、摂取による直接的「薬効」はあくまで関係性の一局面でしかないからだ。

 

トリカブト種子と眼球が形態的に相似することから着想した古来ヨーロッパ人がトリカブトを眼病薬として用いたという真偽不明の逸話もあるが、そのような現象的相似性による思考と実践がここアマゾンではまだ生きているこういったアシミレーションの事例はアマゾンでは事欠かない。

 

例えば、強いアヤワスカを作るためには強い火で煮る必要があるという。西洋化学者から見れば無用な加熱は有効成分の熱変性を促すため避けるべきとの意見になるだろうが、ここアマゾンでは違う。

そしてそうやって作られたアマゾンのアヤワスカの「強さ」に異論をもつ人は少ないだろう。

 

他にも、シピボ族につたわる有名な逸話に、病気の妻を治癒するため薬草を探していた夫の話がある。

彼は川岸に生えた植物に目をつけた。なぜならそこは、雨季には水底に没してしまう場所であるから、その植物は水中でも空中でも生きていくことのできる強さを持っていることになる。彼はその植物の強さを妻に与えようと、それをチンキにして飲ませた。すると妻は回復すると共に急激に霊性を開花させ、シャーマンになったとのことである。

 

更に例をあげるなら、耳鼻咽喉系の疾患を治癒する+力を与え嗅覚をクリアにするという薬効から狩人に愛用されているサチャマンゴという植物がある。この植物は、齧歯類アグーチが好んで食べる。

言うまでもなくアグーチは鼻が利き、働き者である。つまりこの植物を摂取すればアグーチの嗅覚や勤勉さと同化できると考え、摂取するのである。現に私はこの植物によって慢性の上咽頭炎を治され、嗅覚の分別性が明らかに向上し、これまでは気づかなかった微細な植物の匂いを知覚できるようになった。

 

クランデリズモの外部から来た人間が一般的に抱く疑問に、そもそもアマゾン原住民はこの熱帯雨林の中からいかにしてアヤワスカとチャクルナという奇跡のコンビネーションを発見したのか?というものがある。

 

この疑問もアシミレーションの観点から見れば何の不思議もない。アヤワスカは蔓植物であり、他の木に取り付いてしか生きていくことが出来ない。木に巻き付いて成長し、しまいにはその木を枯らし、倒壊するとまた地面や地中を這って移動し、別の木にとりつく。

 

こういった生態を知り、アヤワスカのような生命力を得たいと願えば、アヤワスカ単体で飲むのではなく他の植物と一緒に飲んでみようという発想になるのは全く自然なことだろう。

 

植物療法やディエタでは、単にどこか別次元にいる精霊に祈るだけでは不十分で、このように目の前の植物やそれをとりまく環境に現れている相似の徴候を読み取り、そこに自分の体を重ねて同化しようと連日試みることが必須であると私は思う。

 

この観点からすれば、3週間という修行期間はあまりにも短い。

なぜなら植物の生態にとって3週間という期間は一瞬にすぎないし、アマゾンの季節変動や降水、気温、虫たち、動物たちとの相互作用もひっくるめて長期的な視点から観察を繰り返すこと無しに、本当の意味でその植物を知る=徴候を読み取ることは不可能だからだ。

植物とアシミレートしたければ、その植物と同じ土地で共に暮らす他ない。

 

パッと咲いて散りゆく桜のおぼろげな儚さに日本人の繊細な精神性を重ねあわせるかのように。シャーマニズムは土地に根付いた生活の中にしか成り立たないと、私はことあるごとに思い返す。

 

 


夢と精霊


夢の観察はディエタ生活の中で非常に大きな意味をもつ。

シピボの伝統によれば、夢はアヤワスカの世界、精霊の世界と連続的であり、アヤワスカのビジョンの中で行われる精霊的な治癒と同じことが、夢の中で起こっているとされる。

 

修行者が摂取した薬用植物は夢を通じてコンタクトしてくるため、それは手術や投薬と同じ意味をもつものとして重視されているのだ。

そのため呪術医は、患者の夢の内容を問診することにより、治療の進行度合いや薬草が患者の体の中で正しく働いているかを判断することができる。

 

シピボ族の会話では、キキン ポントゥ ヌマ、という言葉が頻出する。

直訳すると、とても真っ直ぐで強い夢、という意味である。

精霊の世界と真っ直ぐに繋がった夢を受け取ることは何にもまして重要であり、それ自体が治療となり、力となる。そのような夢を受け取るための訓練が、ディエタであるとも言える。

 

おそらくシャーマニズムの実践を通じて最も大切なことの1つに、我々が夢やビジョンを通じて受け取るものはたった2つしかない、ということがある。

その2つとは「メディシン」と「シタナ」である。

 

メディシンは読んで字のごとく、良い薬。シタナはシピボ語で悪いエネルギーを意味する言葉である。例えば、夢の中に呪術医が出てきて歌を歌ってくれ、目薬をさしてくれたことがある。これはわかりやすいメディシンだった。

 

また、夢の中の誰かがチョコレートケーキ(ディエタ中は禁忌)を薦めてきたり、目的地へ着くまでの行程を邪魔してきたり、部屋に侵入されそうになったこともある。これもわかりやすいシタナだった。

しかしメディシンとシタナはいつもわかりやすい形をとるわけではなく、一見悪い出来事に見えて実は良い徴候とされるものもある。

 

だからこそ夢を見た後は必ずそれを呪術医に報告し、判断を仰ぐ。シタナを受け取ってしまったと判明した場合はその都度、マパチョを吹いたり、アグア・デ・フロリダやアグア・デ・カナンガといった香水(=シピボ 族のシャーマニズム・ベヘタリズムにおいて、悪いスピリットを清めると考えられている聖水。アルコールベースのものに匂いをつけてある)をつかって、シタナを祓い清める。

その繰り返しを通じて、何がシタナなのかがだんだん直感的にわかるようになってくる。

 

しかし問題なのは夢の中、一体どうやってメディシンだけを選択的に受け取ることができるのか? 特に非明晰夢の場合、夢はまるで映画のように受動的に進んでいく。

そこにいる「私」は、起きている時間の「私」の制御下に無く、ディエタ中であることも完全に忘れて全く別の世界を生きていることが多かった。

 

連日の食事制限で空腹にも関わらず夢の中のケーキを食べないなんていう芸当が出来るのか? 私は途方にくれてしまった。しかし日々の実践の中で気がついた。

 

起きている時間に守っている戒律、食べてはいけないもの、やってはいけないこと、そして心の持ちようそのものが、夢の中の自分を規律化することに繋がるのだ。

例えばディエタ中の食事制限は、「戒律だから我慢する」という心持ちで行ってはならないと言われる。

物理的には禁忌食物を食べていなかったとしても、心のなかで「あれを食べたい、これを食べたい、何故食べられないのか」など思い浮かべ執着していたのでは、全く意味がないというのだ。

 

食事制限はマスタープランツへの敬意の表明であり、そのことを深く体の芯から理解し、欲求そのものを離れることにより、植物との繋がりは作られる。

嫌々ながら他人に合わせて行動しても上手くいかないことと同じである。

そういった心理面をもひっくるめた戒律を遵守し生活し、心の底から体の底からディエタを行えば、夢の中の私と起きている時間の私の区別はだんだんと消えていく。

 

戒律の意味を頭だけではなく感情や生理的反応の次元で理解し始めたころ、次第に夢の中の自分もその戒律に従い始めた。

そこにはすでに「本当は〜したいけど、〜だからできない」という二重に分裂した自己はなく、思考と心と体が一体となって戒律の中に生きる自分がいるだけだった。

顕在意識と潜在意識の乖離はなく、「夢の中の私」と「起きている時間の私」の乖離もない。

これがポントゥ(真っ直ぐで強い)であること、日常を律することで夢を律すること、統合された意志のもので強く在ることだった。

 

修行期間も中盤にさしかかる頃、ミカエラはアヤウマ種の喫煙を薦めてきた。

(写真下左:アヤウマの種。黒い表皮を剥いた状態のものを乾燥させ粉にする。写真下右:アヤウマの果実。種はこの果実から取り出す)

 

夢を良い方向へと導き、薬用植物との繋がりを正す作用があるとのことだった。

その夜を皮切りに、夢の内容が少しずつ変わっていった。高層ビルのような構造物が頻出するようになった。ミカエラによると、高いビルは植物との繋がりであり、知恵であり、力であり、重要な贈り物だとのことだった。

 

また、夢の中の登場人物が面と向かって立ち、真っ直ぐ目を見据えて何かを渡される、というようなことが頻発した。それはネックレスであったり、印籠のようなものであったり、言葉であったりもした。

ミカエラによれば彼らは植物の精霊であり、贈り物を届けるために現れたのだとのことだった。精霊たちは次第に人間の形を離れ、その本来の姿、つまりヘビの姿を顕すようになっていった。

 

「信じることを疑いなさい。見て経験したものだけが真実です」といった具体的な警句を与えられたこともあった。まるで電子音のような、この世のものとは思えない声で「アヤツィーマ・アヤマバージマ」と精霊当人の名前を告げられたこともあった。

そして朝方になるとクヌー(=植物から受け取るエネルギーの振動パターン)が目の前に現れた状態で目を覚ますことが増え、忘れないよう急いでメモ帳に書きつけていった。(写真下左1枚目:初めて受け取ったアヤワスカのクヌー。写真中2枚目・写真右3枚目:ピヨンコロラドのクヌ−)

連日戒律を守り、日中はシャーマニズムやシピボ語の勉強と薬草治療、夕方や夜に祈りを捧げ、夜は夢を見る、そんなその繰り返しの毎日は、想像していたディエタ生活とは全く異なったものだった。

 

一人で森にこもって誰とも会わず瞑想にふけるといった生活を想像していたが、実際は全く違っていた。薬草を飲み、いろいろな人の話を聞き、日誌をつけ、イカロを練習し、復習し、植物に祈り・・・とやっているうちにすぐ日が暮れて夢見の時間。

 

朝起きたら夢で精霊からもらったギフトを「こんなのもらったよ!」と報告に行く。まるでロールプレイングゲームのような?楽しくも忙しい日々。初学者の基礎訓練としては最良にバランスのとれた生活だったと今になって思う。

 

青年マルコスと、「経験」の重大さについて話していた。経験はただの過ぎ去った思い出ではなく、今ここの現実を作り上げる枠組みのようなものなのだと。いま目の前に見えている世界は、いま見えている姿ではない可能性をつねに秘めている。

 

例えば、日本人であれば「あ」という文字を見れば「あ」と見えるだろう。しかしこの文字を「あ」というふうに見ることを学ぶ前、いったい私達はそれをどのように見ていたのだろうか?この疑問は、知覚世界を構成する全ての物事について当てはまる。

 

つまり、何かを学び経験する前と後では、物事が違って見えているということだ。同様に人と人の間にも、物事の「見え」の決定的な違いが横たわっている。

なぜなら一人ひとり全く異なった経験や学びの果てに、今ここにいるから。例えば、毎日見ている10円玉の絵を、現物を見ずに描いてみて、何人かで比べてみると面白い。

誰もが違ったものの見方をしていること、そしていかに普段、見えているようで何も見えていなかったかを痛感するものである。その人それぞれが経てきた人生の全ての経験が、今その人が見ている世界の「見え」を決める。

 

だけど「見え」を左右しているはずの経験が、現に今見えている現実の裏側でどんなことをしているのか、自覚することは少ない。

 

夢とは、現実を裏から支える枠組みが自覚できる形で表出しているものだと私は考える。

今回の訓練に先立つ2017年冬、私は独自の呪術的実践の過程で夢日記を書いたことがある。

その時、夢の出来事やフィーリングを1つ思い出す度に、1つまた1つと現実が崩壊していくという経験をした。

糸を手繰るように深い夢を自覚すればするほど、今目の前に見えている世界の意味が一つ一つ崩れていき、私は誰か、今はいつか、目の前の物体はいつの時代、どの世界から来たものなのか、しまいには今ここ私という現象が完全に失われ、ただ呼吸することでしかその場に存在できない状態となったまま、再び現実を再構成するまでに数時間を要した。

 

この経験以来私は、夢を自覚するという実践そのものが目の前の現実世界の「見え」を裏から支える枠組みにアプローチする方法であることを確信し、ディエタにおける夢の重要性の説明を受けても特に疑うこともなかった。経験は今ココ私の枠組みとして、不可視な形であるが確かに今ココにあるのだから、その枠組みへとアプローチすることは今見えている世界そのものを変えてしまうほどの力をもつ実践である。

 

ディエタでは、生活を規律化することで日常の経験を伝統の元に規律化し、同時に夢の中の世界へと呪術医の指導の元に遡行しながら再解釈を繰り返し、それをまた日常の心構えへとフィードバックすることで経験をさらに整える、この繰り返し行われるフィードバックプロセスの中で、実際に今ココで知覚している現実そのものを良い方向に変えていく。

 

経験を正すことで夢と現実を真っ直ぐに繋げ、ポジティブな意志の元で全てを癒す。

心底、ディエタは美しいと感じた。

 

下記の図は、生物学においてEpigenetic landscapeとよばれる概念図である。

下左1枚目の図は、谷間を球が転がり落ちる経路によって細胞の発生運命の分岐を表現し、下右2枚目はその谷地形を裏側から支える遺伝子制御ネットワークの枠組みが表現してある(Waddington, 1957)。

私はこのスキームを現実と夢の関係性にもそのまま転用できると考える。つまり下1枚目の図は見えている現実世界の時間的展開として、下2枚目の図はそれを裏から支える枠組みの夢として。ディエタでは、生活の規律化による谷地形を削り出しと、夢へのアプローチによる枠組みの再構成を同時に行う。


訪れる試練:アマゾン生活への適応


ディエタ修行中、精霊は修行者に繰り返し試練を与えるとされる。

試練の内容は、一人ひとり異なるらしい。青年マルコスにとってその試練は食への誘惑や友愛への欲求を捨てることだった。私にとってまず訪れたそれは、合わない環境で生活することへの苦難であった。

 

私は元来、清潔で静かな環境以外を徹底的に嫌う性格であり、自発的に発展途上国を訪れる日が来るなど思ってもいなかった。常に周りを敵に囲まれているかのようにすら思えてくる不潔な環境、ザラザラとベトベトを行き来するだけの肌感覚、早朝まで鳴り止まない音楽騒音・・・

私にとってアマゾンでの生活は、誇張でもなんでもなく毎日24時間、1分1秒が苦行であった。今回お世話になった施設はとてもアマゾンとは思えないほど設備が整っており、驚くべきことにプライベート浴室付きの個室を与えられ、なんなら私がいつもカナダで滞在する寮よりもいくぶんマシな住環境であった。

 

人々は最大のホスピタリティでもてなしてくれ、不便があったら何でも相談にのって協力してくれた。

しかしそれでも、毎日が辛くて辛くて仕方がなかった。辛い状況にあると、その感情に引きずられてどんどんネガティブな思考ばかりを引き寄せてしまう。貧困の中、海外の肌に合わない環境の中で転々としながら暮らすしか無い現状、社会から完全に孤立した現状、将来生活が改善する見通しも全く無い現状、そういったアマゾンでの修行生活そのものとは全く関係のない過去への後悔や未来への憂いが次々と舞い降り、黒い渦のような感情を生み、祈りや睡眠を困難にしてゆく。

 

しかし、苦行はその一つ一つが実に学びのチャンスであった。

例えば潔癖症の場合、サンダルの端から足が泥に触れるたび、汚い!という悪感情と、泥そのものの純粋な触覚が同時に訪れる。自我に脚色された感情的世界のその先に、アリノママの感覚的世界を常に見据えることができる。

泥の中を一歩一歩踏みしめて歩きながら、二重に乖離した世界を感じつつ、アリノママの世界をしっかりと注視していくことで、感情的世界が徐々に背景化していき魂の根底から救われるような気分になることもある。

もし足に泥がついた状態を生来気にしない人であれば、サンダルを履いて泥の中を歩くことなど当たり前の日常であり、そこから学ぶことは何もないだろう。手を変え品を変え現れる苦行から一つ一つ学びを掴み取ろうと毎日暮らす過程で、特に根本的な解決をもたらした出来事が2つあった。

 

1)呪術医らと夢談義をしていた時、「夢で見たものは全て、自分自身なんだよ。」と言われたことがあった。

「特に夢に出てくる家はあなた自身の体だから、家を上手くケアできているならあなたの体の治癒も近い。」 

その時ハッと気づいた。夢だけではなく、今目の前に見えている世界は結局のところ、それそのものが自分自身なのだ。苦難の中にあって、植物から学んだ重大なことを忘れていた。世界が汚く見えるなら、自分自身が汚いということ。

家が汚いなら、自分が汚いということ。ならば毎日掃除し、家と自分の関わり方を改善すればいい。家との関わり方はその人の安息の形。安息の形が安定すれば、楽になる。気づいてみればバカバカしいほど単純な話だった。

 

その日を境に、家の徹底清掃が毎朝の日課になった。同時に、毎日の入浴や就寝をとりまく日常の導線、つまりどこでどのスリッパを履いてどうシャワーを浴びてどうベッドに上がる・・・などを全て様式化した。みるみるうちに不眠は解消し、日中のストレスも劇的に減っていった。

 

2)そんな折、NATIVE SOONのキー坊氏からふと「死ぬならどこでどう死にたい?」との問題提起を受けた。

正直に言うと私は死なんて幻想だと思っている。昔のこと、未来のこと、思い描くことは多々あれど、今自分が生きているのは今ココにある現実でしかない。どんなに過去を悔み、未来を憂いたところで、今目の前にはそういった考えに囚われた自分というアリノママの現実しかない。

 

では死を未来のものとして考えず、まさに今死んだとしたら、それで満足か、自問した。満足だと気づいた。

生活は苦しくても、好きな呪術を学びながら、いつか良い暮らしを手に入れる未来を想像しながら死んだっていいじゃないか。実際のところ、物理的な意味での死はいつ訪れるかわかならない。

ならば今まさに死ぬと思って暮らそう。そう気づいた瞬間から、悪感情の発生そのものが劇的に少なくなっていった。